小さな村のはずれに、一軒の古い家がありました。
大きな門はめったに開かれることもなく、風が吹くたびに古びたきしみを響かせるばかり。
ひっそりと閉ざされた門の向こうには、広い庭と少し傾いた蔵、そして小さな畑がありました。
ある寒い朝のことです。
その家の縁側で、年老いたおばあさんが豆をひとつかみ、手の中に抱えていました。
「おにはそと、ふくはうち」と小さく声をかけながら、庭に向かってひと粒ずつ豆を撒いているようです。
撒かれた豆は、地面に張る薄氷の上をころころと滑り、まだ雪の残る土の上へと落ちていきます。
そして、そのうちの一粒の豆は、ほかの豆とは少し離れた場所までころがり、蔵の脇の長靴のかげにうずくまりました。
しばらくしてから、ごろんと寝返りをうった豆は、仰向けになって空を見上げます。
白い雲に隠れながらも、うっすらと差し込む柔らかい光。
冬の終わりと春のはじまりがまだ決めきれず、どちらにしようか迷っているような、そんな淡い光が、豆を優しく包みました。
「寒い」と、豆は小さな声でつぶやきました。
「......けど、この光はなんだか優しい」
それからしばらく、見るでもなくぼうっと空を眺めていると、庭の隅から一羽の小鳥がちょんちょんと近づいてきました。
薄茶色の羽をふくらませ、首をかしげながら豆を見つめています。
「おはようさん。きみ、豆だろう。どうしてこんなところにころがっているのさ?」
「おはよう。おばあさんに投げられて、それでここまで。別にころがりたくてころがってるわけではないんだけどね。けどまぁ、意外といい場所かもなって。鳥さんは?」
「なるほどね。僕は......特にこれといった理由はないんだけれど、なんだか今日はいい感じだなって思って。最近は寒かったから、ここのところずっと巣の中にこもりっきりだったんだけど、急に外に出てみたくなって」
「そうか、今日はいい感じの日だったのか。じゃあ、儲けもんだ」
豆はそういってカラカラと笑った。
「そういえば、ここまで転がってくる途中、雪はまだ残っているのに、そこここに小さな芽が出始めているのが見えたんだ。すごいよね、まだこーんなに冷たいのにさ」
春が大好きな小鳥は、その報せを聞いて、嬉しそうにふんわりと羽を広げました。
「ふふ、そうだね。冬と春が入り混じるときって、少しだけ息苦しいような、でもちょっとわくわくするような、妙な感じがするよね。でもその変な感じって、きっと悪いことじゃないんだろうな」
たしかに、と小鳥の話を聞きながら、冷え切ってしまった背面を返すように、再び寝返りをうつ豆。
すると視線の先に、庭の隅の梅の木が、白くかわいらしいつぼみをいくつもつけているのが見えました。
まだ開ききってはいないけれど、ほんのりと赤みがさした花びらが、雪の冷たさを忘れさせるかのようにほころびかけています。
豆は、その姿を見つめながら静かにつぶやきました。
「わたしも、もしかしたら、土のなかで芽を出して春を迎えるかもしれない。なんだか、そんな気がしてきたよ」
「きっとそうなるよ。何せきみは豆だからね。小さいけど、ちゃんと新しい命を育む力に満ちてるもの。僕もね、今日は少し遠くまで飛んでいこうかなと思っているんだ。お互い、寒さに負けないようにしよう」
小鳥はそう言って、冬空と春めく空気が交じり合う中へ、羽ばたいていきました。
豆は小鳥を見送ったあと、土の感触にそっと身をゆだねます。
すると、雪解け水が少しずつしみこんでくるのを感じました。
冷たいはずなのに、心の奥では不思議とあたたかさが芽生えてくるような気がします。
「負けないよ。だって、今日はこんなにいい感じなんだから」
豆がうずくまる長靴のそばからは、おばあさんが撒いたほかの豆たちも、少しだけ離れた場所でゆっくりと土に沈んでいくのが見えました。
梅のつぼみも、その上をちらりと見下ろすように、ゆっくりと膨らんでいきます。
「おにはそと、ふくはうち」というおばあさんの小さな声が、まだ庭の隅にこだまのように漂っているようでした。
それから、どれほどの時が過ぎたのでしょう。
冬の白い息が薄らいだある朝、あの古い門が軋みながら開かれて、おばあさんがやってきました。
蔵の脇のしなびた長靴のそばには、小さくて柔らかな芽がぴょこんと顔をのぞかせています。
それは土の上にころがったままの豆が、春のあたたかな陽ざしに背中を押されて芽生えた姿でした。
「まあ、こんなところで根をはったのね」
そう言って微笑むおばあさんのしわの寄った頬には、優しい光が宿っていました。
おそらく豆自身も、これからどんな花や実をつけるのか、自分ではまだはっきりと知らないのでしょう。
けれどその小さな芽は、春を迎えるこの庭のなかで、確かに自分の居場所をつかみはじめたようでした。
空には白い雲がゆっくりと流れ、少し遠くからは小鳥のさえずりが聞こえてきます。
雪解け水はぽたぽたと地面を濡らし、土からは新しい息吹が鼻先をくすぐるように立ち昇ってきます。
冬と春の境目は、なかなかはっきりとはわからない。
けれど、空気や光がわずかに移り変わるこの季節には、不思議な勇気と喜びが詰まっています。
雪の下に隠れていたもの、冷たい地面の奥で眠っていたものが、少しずつ形を変えながら顔を出す二月。
投げられた豆が芽を出すように。
小鳥が風に誘われて飛び立つように。
誰の胸の奥にも、見えない種は眠っているのでしょう。
いつかそれが開くときを願って、そっと両手をあたためながら、春を待つのも悪くない――豆の芽とおばあさん、そして飛び立った小鳥が紡いだ物語は、そんなささやかな真実を教えてくれているようでした。